〈3月例会のお知らせ〉
講師:フェアバンクス香織(文京学院大学)
司会:長谷川裕一(関東学院大学)
<発表要旨>
アーネスト・ヘミングウェイ(1899-1961)が生前最後に出版した小説は『老人と海』(1952)。その二年後に受賞したノーベル文学賞のスピーチにおいて、彼は、真の作家が世に送り出す作品は常に「新たな始まり」だと述べた。しかし、ヘミングウェイ自身が実際に「新たな始まり」を目指してその後も執筆活動を続けたかどうかについては、さほど関心が寄せられなかった。後年の彼は、度重なる傷病や不安定な精神状態が顕著だったからである。
ところが、ヘミングウェイは『老人と海』以降も執筆の手を緩めることなく、時には二つの作品を交互に進めながら、死の間際まで意欲的に創作活動を続けた。彼が遺した作品の数は、長編で5つ、中・短編はそれを優に超える。特に未完のまま放置するようになった第二次大戦以降の作品群には、共通して、ヘミングウェイが独自の自伝スタイルを生み出そうとした形跡がみてとれる。未完がゆえに、実験的だったがゆえにその形跡は弱々しいものではあるが、草稿には手書きの修正痕や、幾通りも認めた文章がそのままの形で残っており、彼の自伝創造への思いを直に感じとることができる。
ヘミングウェイの死後、断続的に出版された作品はその都度大きな話題を呼び、ヘミングウェイ研究に新たな潮流をもたらした。性役割の交換を描いた『エデンの園』はその代表格だろう。しかし遺族らによって編纂されたテクストは、ヘミングウェイが遺したテクストそのものではない。『エデンの園』は草稿の半分以上が削除され、パリ回想録『移動祝祭日』でも人称代名詞が変更された。作者の単純ミスと判断された人称代名詞も、実際には自伝創造に向けた試行錯誤の形跡だったにもかかわらず・・・。
本発表では、ヘミングウェイが死後出版作品群の執筆を通じて成し得ようとした自伝創造への道程と、それが編纂によっていかに阻まれてきたかを、いくつかの作品を例に検証したい。そして同時期に執筆されながら、出版の日の目を見た『河を渡って木立の中へ』との分岐点を探っていきたい。
ところが、ヘミングウェイは『老人と海』以降も執筆の手を緩めることなく、時には二つの作品を交互に進めながら、死の間際まで意欲的に創作活動を続けた。彼が遺した作品の数は、長編で5つ、中・短編はそれを優に超える。特に未完のまま放置するようになった第二次大戦以降の作品群には、共通して、ヘミングウェイが独自の自伝スタイルを生み出そうとした形跡がみてとれる。未完がゆえに、実験的だったがゆえにその形跡は弱々しいものではあるが、草稿には手書きの修正痕や、幾通りも認めた文章がそのままの形で残っており、彼の自伝創造への思いを直に感じとることができる。
ヘミングウェイの死後、断続的に出版された作品はその都度大きな話題を呼び、ヘミングウェイ研究に新たな潮流をもたらした。性役割の交換を描いた『エデンの園』はその代表格だろう。しかし遺族らによって編纂されたテクストは、ヘミングウェイが遺したテクストそのものではない。『エデンの園』は草稿の半分以上が削除され、パリ回想録『移動祝祭日』でも人称代名詞が変更された。作者の単純ミスと判断された人称代名詞も、実際には自伝創造に向けた試行錯誤の形跡だったにもかかわらず・・・。
本発表では、ヘミングウェイが死後出版作品群の執筆を通じて成し得ようとした自伝創造への道程と、それが編纂によっていかに阻まれてきたかを、いくつかの作品を例に検証したい。そして同時期に執筆されながら、出版の日の目を見た『河を渡って木立の中へ』との分岐点を探っていきたい。