英専協(大学院英文学専攻課程協議会)にて日本ヘミングウェイ協会前会長今村楯夫氏の講演が行われます。ご興味のある方はご出席ください。
とき:11月24日(土)
ところ:東京女子大学 6号館6115教室
開会の挨拶:12:30-12:35 原英一 氏
講演会: 12:35-13:30 今村楯夫氏
講演会: 12:35-13:30 今村楯夫氏
発表要旨
作家の「知的な」振る舞いと美学
今村楯夫
フィクションはどこまで虚構的なのか。虚構あるいは創作と事実や史実との間に差異や溝があり、それを認識し、溝を埋めていくことを読者が喜びとするのは、おそらく趣味的な次元から研究者への第一歩なのでしょう。また表層に現れている事実の背後に作者が意図する真実が隠されていることを発見するのも研究の楽しみです。さらに作者が無意識に使っている言葉の裏に、作者の作為とは異なる意味を読み取ることもあります。
ヘミングウェイの作品のひとつに『午後の死』があります。エドワード・W・サイードをして「二十世紀アメリカのもっとも偉大な本のひとつがヘミングウェイの『午後の死』である」といわしめたノンフィクションです。サイードはエッセイ「牛の角に突き殺されない方法——アーネスト・ヘミングウェイ」(『故国喪失についての省察』所載 [2000年]、邦訳 [2006年])の中で『午後の死』を取り上げ、「同書を傑作たらしめているのは、彼の、未知の世界にはいっていき、それを征服する能力である」と述べています。その真偽のほどは改めて論じなければなりませんが、『午後の死』という闘牛論を論じたとされるノンフィクションというフィクションに焦点を当てて、虚構と事実の間隙に潜む「真実」を探ってみたいと思います。
ヘミングウェイ自身が『午後の死』の中で表明していることは、「新聞記者時代に事件を報道しようとした際に、時事的な出来事の内在する情緒を伝えることに努めたが、作家になってさらに、情緒を生み出す現実の事物とは何であるかをとらえ、表現することに努めた。書くことを学ぼうとして、一番単純で、しかも一番根本的なことは激烈な死であり、それは書くに値する主題である」と考えたことです。そこで「戦争が終わったいま、激烈な死が見られる場所は闘牛場しかない」と考え、スペインでの闘牛観戦に赴きました。
ジョージ・プリンプトンのインタビュー(1958年)で「いつ作家になることを決めたか」という質問に対しては、そういう決断をしたことはないが、物心がついてからずっと書き続けてきた、と応えています。もの書き、あるいは作家という生業はヘミングウェイにとっての「作り話」をするという天性であり、運命づけられた仕事であったように思われます。また釣りという魚を捕らえる趣味は、動物を捕らえる狩猟、生死を賭した闘牛観戦という関心に繋がっていきます。釣りと狩猟は必然的に旅に繋がり、やがて未知なるカリブの海やアフリカの草原にヘミングウェイを誘うことになります。それらのいずれもがヘミングウェイの文学の原素材となり、それは生涯続きます。このアウトドアー的な行動作家像によっていつしか「マッチョ・ヘミングウェイ」という虚像が作り上げられました。その一端はヘミングウェイ自身の言動によりますが、一方でマスコミは誇張し、ときには戯画的にヘミングウェイの反知性的な側面を描き続けました。しかしこの「反知性的な」言動の背後には、きわめて「知的な」感性とそれに基づく行動力が潜み、ヘミングウェイの文学の根源を成す美学が確立されています。作家の「知的な」振る舞いと美学について、みなさんといっしょに考えてみたいと思います。文学研究のあり方、さらにはなぜ、文学を研究するのかという自らへの問いに対する回答が自ずと浮き彫りにされることを願っています。